そういえば・・・・・。
4月の10日に「女ひとり寿司」の文庫版が幻冬舎から出ました。
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4344412982/naoyadyndnsor-22/ref=nosim/
解説は上野千鶴子さんです。 ぜひ、本屋にお寄りの際は、チェックしてみてください。 さて、と・・・・。
●3月21日と22日 あきる野の「少女まんが館」 に沈没
昨日の喧噪とは真逆の方向に沈没したこの二日間。古くからの知人、さるすべりの大井夏代と中野純夫妻が主催する少女まんが館が武蔵松戸のあきる野に移転したというので、オープン前の館の二階に初の客人として泊めていただきました。 今度の場所はすごくいいところ。だって、庭先から秋川の河原にダイレクトに降りていけるリバーサイド付きという立地。釣りと少女まんがのカップリングにこの夏は挑戦できるというわけです。 蔵書はこの日、まだ運搬されておらず、山ひとつ隔てた旧館にあるというので、翌日の22日はほとんど、旧館にひとり籠もって漫画三昧してきました。私は小学校一年時か月刊「りぼん」を読み続けていたのでしたが、それが実際に目の前に在ることの何という奇跡。その分厚い雑誌には口絵のファッショングラビアページや読者のお便りコーナーがあるのですが、漫画だけでなく、それを未だに覚えている自分がいるんですねぇ! そうなんですよ。この口絵のキャスケット帽に憧れて私は初めて自分の意思で帽子を買い、胸当て付きのサロペットスカートを新宿伊勢丹に買いにいったのだった、ってな過去がまざまざと蘇ってくるのです。そして、驚くべきことが、このころ、デビュー数年後の一条ゆかり先生が現役で書いていたテーマは、レズビアンに近親相姦ですぜ。本宮ひろしに嫁いだ、清純派の森田じゅんも「うみどり」という漫画で実は兄と妹だった、という近親相姦を書いてもいたこともあらためて確認できました。もちろん、これ、過激な性描写というのではなく、充分に文学的なものなのですが、コレを小学生時代にたたき込まれちゃったからこそ、この今の自分があるのだとあらためて確信。そう、小学生のワタシは一条センセイが描くところの、酒とバラとファッション、そして、冗談に満ちた日々を送る大人に心底憧れたのでした。(固有名詞としては、カルマンギア、チッペンデール、パリコレ、スペイン戦争・・・・) ●3月26日 立川志らく「雨ン中の、らくだ」出版記念落語会においての立川談志
ホール落語のメッカ新宿・紀伊国屋ホールに久々に行ってきました。太田出版の悪ガキ編集者、梅山君が満を持して作った志らく本の出版記念落語会です。 この正月、深夜から朝までやっていた、立川談志の番組が凄かったので、その”教養”を下準備にて聞く、談志節は二重に刺激的でした。談志の談話の中に古典落語の一説が所々引用されるのですが、そのワンフレーズだけで、あたりの空気が一変してしまうのです。「俺は、立川談志に飽きた・・・・」などという言葉も、あの独特の間をとった語り口で言われると、そこには数々の文学作品が挑んできた、ひとつの”老境"が立ち上ってしまうわけです。 志らくは上方落語の「たちきり」という作品を披露したのですが、それは完全に師匠・談志とそして、話自体が面白くないときに、どこまでいじってしまっていいのか、という落語についての公開質問のような位置づけ。こうなると、もはや立川談志はアンディー・ウォーホールかデュシャンの域ですね。彼の言葉と存在が、ひとつの信じるに足るフレームになってしまっている。志らくという大変に頭もよく、闘争心もあり、オタク世代以降の現代っ子(多分、物事をナナメに見立てるセンスもある)がこうまで表現人生を一個人に捧げてしまう、という意味はやはり不可思議ではあります。音楽や他の表現だと、こういう師弟関係はあんまり考えられない。水道橋博士と北野たけしの関係にも似ていますが、話芸というものは、そういう力学を欲してしまうのでしょうか。 ●3月27日 飴屋法水×平田オリザの「転校生」は女子高生ノイズオケの風格
80年代初期のぴあに新卒入社した私は、演劇担当が最初の部署でした。音楽に突っ込んでいた私は、当時の演劇表現のとてつもない「音のセンスの悪さ、今さら全共闘な時代遅れ感」(なにかっつーと、ストーンズで反抗を、キングクリムゾンでクライマックスを表したりの紋切り型)にうちひしがれていたのですが、その中で見つけた珠玉かつ希少な才能が飴屋法水でした。(情宣に会社にやってきた、若き日のとてつもない美少年ぶりに大きくヨロメいたことは事実ですが) 初期の集団、東京グランギニョルが行った公演は、当時のニューウェーブやテクノ、ノイズ、サイバーパンクのセンスとシンクロしており、本当に当時、今と同じ様なメディア状況だったならば、絶対に海外のフェスで紹介され、話題になっていたはず! というシロモノ。 さて、平田オリザ脚本は女子高生の集団の中に、ひとり、転校生という異物が入り、女子高生たちは彼女を受け入れながら、身近でおきている恋愛や出産や死の問題に動揺していくというもの。彼女たちの話題のひとつ、カフカの『変身』が、そのまま、「朝起きたらこの学校の生徒になっていた」という転校生とオーバーラップするという隠し玉も効いています。 飴屋作品はそういった物語を、「女子高生の存在と会話」を音源とする、一種のノイズオーケストラと捕らえました。延々と続くおしゃべりの騒音は、意識を払ってみれば、そのひとりひとりにストーリーと真剣なコミュニケーションがあるわけで、ここのところ、人間がすべからく持っている"偏見"というものを示唆していきます。このような、飴屋DJの女子高生サンプリングのロングミックス中、観客の目と耳は、ある時は学級委員の女の子にある時は五月蝿いブリッコに焦点を合わせ、ある時は意識がふっ、と離れていきます。 そこから、観客が何を感じ取るのかは自由。実際に演技者たちは静岡でオーディションされた本当の女子高校生というわけで、その現実と虚構とのあわいを愛でるのも一興でしょうし、私は「十代の女の子の青春の蕩尽」という暑苦しくもムダなエネルギーを目前に、「嗚呼人間、その存在の悲しさよ」なーんていう感傷が心をよぎったりもしました。 作者の平田さんも飴屋さんも「女子高生の集団」に男性ならではのエロスを感じていることは間違いはなく、女子高生の自然、といっても、彼女たちが無意識にもそのオーダーに抜かりなく答えている、という共犯関係は正直言ってありました。個々の女子高生=ノイズの音色が生音ピアノみたいに善き存在なんですよね。これ、映画の「桜の園」に似ている。 終演後、ホーメイのパフォーマー、山川冬樹さんとも久々の再開。山川冬樹さんに対しても私、ソナートウキョウのパフォーマンスを観て衝撃を受けて、お仕事ナンパをした過去があり、つくづく、美男に弱い私でした。 ●3月31日 冨沢ノボル42歳の誕生日にてヘンなボディースーツ
冨沢ノボル君の誕生日。野宮真貴ちゃん発案にて、この素晴らしいボディースーツを贈答。全く違和感がないのが、怖い。しかし、ノボル氏のお顔は、いつも私に岸田劉生の麗子像とルーブル美術館の書記座像を思い起こさせてくれます。
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