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執筆者の写真湯山玲子

さようなら、深浦加奈子。追悼。


 深浦加奈子さん(左)と私。80年代前半。一緒に飲んでるところ。

 深浦加奈子が亡くなって今日で一週間が経ちます。それでも毎日は過ぎていき、その事実を頭では理解しているのですが、心がそれに伴っていきません。今日も電車で栗色の長い髪を緩いポニーテールにしている女の子がいたのですが、その髪の毛の感じがフカウラにとっても似ていて、またまた、急に胸が締め付けられてしまいました。彼女の断片が思いがけないとこで目に入ってきて、そのたびにうろたえるということがこれからかなりの間、続くことでしょう。


 三十年以上前に、小学生の時に仲良くなってから、ずっと友達でいて、いろんな時代のいろんな季節にホントに彼女とは良く遊んだものです。


 小学校の時、放課後、ふたりでテレビを観ていて、石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」の有名な「裕次郎ひとりドラム大暴れ」のシーンを見て床を転げ回って爆笑し たことがあったっけ。今でこそひとつの様式として認知され、普通に鑑賞できるあのシーンですが、当時は「見ているこっちが赤面する突拍子もなさ」の集大成で、 お互いに目の玉を白黒させて、笑い転げました。そんなマニアな笑いのツボが一緒だというので、「コイツとは一生友達だ」と幼い私は密かに感動したものでした。そういえば、当時、アバンギャルド路線をひた走っていた赤塚不二夫の「天才バカボン」や山上たつひこの「ガキでか」にも一緒にハマることができる数少ない不思議な 女友達が深浦でした。彼女から借りっぱなしになっている筒井康隆がきっとまだ、実家にあると思います。


 第三エロチカを止めて、加藤芳一さんや元WAHAHA本舗の村松利史さんたちとお芝居をやり始めたとき、彼女が方向性として選んだのは「お笑い」だった のは、だから、必然でした。この時、私は一番彼女と良く会っていて、「舞台で人を笑わせる」ということの難しさをもの凄く具体的に聞 いた覚えがあります。このころの深浦加奈子は目の覚めるような美貌で、その美貌をものともせず、ナンセンスや毒のある哄笑に挑んでいる最中であり、それは最初から合格点というようなものではなく、それはそれはハー ドな修行のようでした。彼女は大変頭の良い、批評的な頭を持った人でしかも真面目で勉強家と来ている。天然のお笑いの才能があったり、ファニーフェイス だったり、のメリットがないところの、しかも女性のそれは試行錯誤の連続だったようです。  しかし、そのことの成果は彼女がテレビや映画で名脇役として真に 才能を発揮した近年にはっきりと現れていました。 エキセントリックなお受験ママやナースや小姑のちょっとした表情やニュアンスにもれなく、人間の不条理や複雑な感情の綾を秒速かつ高圧で込めてくる。テ レビドラマの紋切り型のセリフや人間像が彼女の役柄だけ強度を持ちえたのはそんな過去の修養があったからこそなのです。彼女とはいろんな映画やお芝居の話をしましたが、ウディ・アレンの「ブロードウェイと銃弾」のダイア ン・ウィースト、「シリアル・ママ」のキャスリン・ターナーなど、彼女が語る女優論は、たんなる鑑賞者である自分には考えもつかない視点があり、「演者はこれほどいろんな 物事が見えるのか!」というぐらいに刺激的なものでした。役者出身の映画監督は、クリント・イーストウッドをはじめとして、最初から上手い人が多いのですが、彼女も生きていればこの時代、映画をとる機会があったかもしれません。いや、そういうことには慎重だったから、やっぱり女優をまっとうし、希木希林も色を失う素晴らしい怪優、名優になっていたかもしれません。


 人生初めての保護者のいない海外旅行、というのは、彼女も私も一緒に行ったインドが最初だと思います。私が大学四年、彼女が三年の時でした。  デリーの空港から街に行く白タクスクーターと喧嘩して、道の途中で下ろされたり(よくある料金交渉の決裂ですが、最初にタンカを切って降りたのは彼女の 方)、彼女に求婚するインド人が少なくともふたりはいたり、ベナレスのボートで暮らしているフランス人ヒッピーにタブラを習ったり、多分、この先こ んなに面白い旅行はないだろうと言うぐらいのエピソード満載の珍道中でした。  北西部にジャイプールというとても綺麗な砂漠の入り口の街があるのですが、そ こで彼女が言ったことが、そういえば、忘れられない。夕方に着いて、ラクダがゆっくりと行き交う夜の街をそぞろ歩いていたとき、急に「この光景、絶対に前 に見たことがある。私はこの場所を知っている!」と何度もいうのです。彼女の美貌はインド人似のエキゾチックなところがあるし、インドの彼の地は彼女の魂 に深い縁があるところかもしれませんね。月とぼんやりとした市街の明かりに浮かび上がるラクダの長い首と椰子の木の光景は、今こうやって目を閉じてもはっ きりと思い出すことができます。肉体を離れた魂は時間も場所にも囚われずに自由だといいますから、彼女はもう一度、あの時のジャイプールの熱帯夜の街に飛んでいったかもしれません。


 荒ぶる魂を持った女でもありました。  山下達郎の葉山マリーナのコンサートに行った帰り、ずぶ濡れのままヒッチハイクでボンクラ大学生の車に乗っけてもらって帰ったり、横浜に彼女の車で遊びに行ったら、 レッカーされて、警察で深浦、迫真の演技で泣いて交渉したけれども鬼の神奈川県警は車を返してくれず、ふたりで今は無きバンドホテルに泊まって、バッキー 白片のハワイアンショウを観たり、彼女との思い出のほとんどは、一寸先は闇の冒険活劇のようでした。当時の若い女性というものは、今と違って将来の選択肢がほとんど無かったので、限りなくノーフューチャー。私たちはいつも苛立っていて、彼女はその中でもいつも突撃隊長のようなところがあって、ホ ントに格好良かった。飲み屋で私たちに説教を垂れる全共闘オヤジとよく、喧嘩しましたよね。  しかし、芸能界メジャーの仕事が増えてからは、その攻撃性が包容力のようなものに変化していったような気がします。若い 役者さんたちの面倒をよく見ているようでした。そうなってから、私はふたりだけで遊びに行くことがなくなりました。そのことをお互い大人になったんだか ら、と思っていたけれど、今思えばもっと昔みたいにいろんなことを語り倒せばよかった。天下国家から、マンガに至るまで! 笑いは百薬の長だと思って、久々に私の笑いのツボにはまった「デトロイト・メタル・シティー」全巻を病院に送りました が、もう、読む気がおきない、って言ってたよね。


 一週間前の日曜日の5時頃、私は彼女と病院で最期のお別れをしました。いや、その時はお別れを言うつもりはなかったのですが、握りしめた手をぎゅっと握り替えしてくれて、彼女は「ありがとう」と言った。私は私でものすごく言いたいことがあったのですが、その時は全く言葉が出ませんでした。イン ドのことやたくさんの思い出話でもいい、その夜、その言えなかった言葉を反芻して、明日こそ伝えよう、と思っていたのですが、翌日、なぜだか全身の気力が抜けたようになってしまい、仕事を中断してソファ寝してしてしまい、病院には行きませんでした。そうして、その日の夜、彼女は静かに息を引き取ったのです。


 深浦加奈子さんの冥福を心からお祈りいたします。

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